ヨイキゲンの酒造り

こだわり

時代の流れにより、嗜好品である日本酒の好みも多様化して参りました。

基本的には当蔵の日本酒は、米の旨味を活かし貯蔵により適度に熟成された味を目指しております。

それは食中酒としての日本酒で、適度な旨みと控えめな香り、そして何よりもお料理の味わいを引き立てるようなお酒を造り続ける事を第一に考えております。

2018年の酒蔵大改革により、今まで長年造り続けていた普通酒の製造を完全に止めて、こだわりのお酒である特定名称酒以上の日本酒を造ることを決断しました。

それに伴い製造設備の見直しを行い、製造蔵の空調完備や少量甑、新たな麹室の導入を進めました。

現在は雄町米を使用した純米造りを「碧天(へきてん)」として展開しております。
一本の仕込み量は、総米1000kg以下にして、細かなモロミ管理を実践しています。
コンセプトは、雄町米の旨みを引き出したキレのあるお酒。決して香りの高いお酒ではないですが、飲み飽きのしない料理の味を引き立てるお酒を目指しております。

今後は小仕込で余裕のある製造計画を行い、モロミひとつひとつを大事に管理して参ります。
リキュール製造では、フルーツ王国おかやまならではの豊富な果物を調達し、果物本来の味わいや特長を活かした商品作りをして参ります。

沿革

岡山市の西部から総社市にかけては、数多くの古墳や史跡が残されています。これらを総称して「吉備路」と言い、年間多くの観光客で賑わっております。
当蔵はそのような古の文化が今に生きる地域、総社市清音に位置しております。蔵の西側には高梁川が流れ、東側には福山をはじめ山々が連なり、雄町米をはじめ備中米が多く稔る土地です。
万葉集にも詠まれている吉備の酒。全国的にはあまり知られていないですが、古の時代から酒造りが盛んな地域でした。

創業から移転まで(1907~1967)

創業は明治40年(1907年)。当蔵の酒屋以前は鍛冶屋を家業としておりましたが、初代渡辺捨吉が下道郡穂井田村(現在の倉敷市真備町服部)で酒造りを始めました。

仕込み水には、高梁川の支流である小田川の伏流水と、蔵の南側にある弥高山から流れてくる山水を使っていました。屋号は「富貴(ふき)」で、当時の商標は「富禄正宗(ふろくまさむね)」です。
大正10年の「清酒品評会」には優等賞を受賞。
大正13年には「全国酒類醤油品評会」にて一等賞を受賞。

二代目渡辺巌の時、商標を「酔機嫌(よいきげん)」としました。
製造量が増えるにつれ醸造用水の確保に難儀し、創業から60年目の昭和42年(1967年)には現在の地、清音に移転しました。
以後、品質第一に旨口の酒を醸しています。

移転から最盛期(1967~1973)

日本酒の出荷ピークは1973年。その直前に移転した弊社は、伸び続ける出荷量に対応すべく、2000坪の用地を確保し設備の増設を行いました。

当時は桶売り(未納税移出)用の製造も盛んでしたが、昭和40年代(1965~1974年)には国からの製造石数の割り当てもなくなり、次第に桶売りの量も減ってきました。



量から質の時代、求められる多様性
(1973~2017)

当蔵では昭和50年代(1975~1984年)の焼酎ブームの時期に蒸留設備を導入し、米焼酎の製造を始めました。

日本酒消費量が減りつつある時代でも減少幅は緩やかで、まだまだ「アルコールといえば日本酒」という時代でした。

しかし平成に入り、社会的な変化や酒類の多様性、そして量よりも良い酒を少量だけ嗜む傾向が見受けられるようになりました。

解体から始まった今後(2017~)

市場の変化に伴い、一般酒販店が軒並み廃業することにより、弊社の売上も激減する中、50年前に移転した当時の設備と広大な敷地を維持しながら経営していくことは困難になりました。

また、かつての主要販売酒、普通酒の販売も苦戦しております。

熟慮した結果、土地の大部分を売却し、残った土地で新たに特定名称酒を中心とした酒造りを始めることを選択しました。

製造環境の一変した所で、自分自身で酒を醸していくことは中々大変なことではありますが、ひとつひとつ基本に忠実に、そして今まで酒造りで得てきた知識と技術を基に、酒造りに臨みます。